ブルームの西側の海岸線に22キロに渡って白浜が続くケーブル・ビーチは夕陽の
名所として有名で、日没が近づくと大勢の人が集まってくる。巨大な太陽がインド洋に
沈んだ後も、余韻の光で空がオレンジ色から真紅へと染まっていく様子は、息を飲む
ように美しい。
このビーチに向かう途中、町はずれの道路沿いに、採貝作業中の事故などで命を
落とした日本人潜水夫ら919人の遺骨が眠る日本人墓地がある。約700の墓石には
故人の出身地も刻まれているが、特に多いのは和歌山県太地町の出身者だ。紀伊
半島南端に近い太地町は、かつて捕鯨で栄えた町だが、明治11年の大遭難で捕鯨
船団が壊滅的な打撃を受け、それ以降、海外へ出稼ぎする人が少なくなく、豪州の
木曜島やブルームも渡航先の一つだったのだ。当時は、真珠ではなく、高級ボタンの
材料として使われていた貝殻の採取が主目的だった。
司馬遼太郎も『木曜島の夜会』という短編小説で描いているが、重い潜水服をまとい、船上からポンプで送られる空気を頼りに暗い海底で貝を探す苦しい危険な
作業に、日本人潜水夫は卓越した技術と根性を発揮した。ブルームでは、最盛期には2千人以上の日本人が働いていたそうだ。
プラスチックボタンの登場で、戦後は真珠貝採取は下火になったが、60年代に日本
から技術を導入して開始された真珠養殖が、ブルームの新たな基幹産業として成長した。この長年にわたる「真珠の町」としての歴史を記念し、ブルームの日本
人社会で行われていた盆祭りの習慣にちなんで、1970年から毎年、8月中旬に「真珠祭」(英語でも「Shinju Matsuri」)が開催されるようになった。今やブルーム最大のイベントに発展し、10日間の期間中はどのホテルも満員だ。
30回目を迎えた昨年の真珠祭には、姉妹都市・太地町の民芸保存会も参加して、
伝統の鯨おどり・鯨太鼓を披露、計5回の公演は拍手が鳴り止まず、何度もアンコールが続いた。この一行の通訳などの世話に当たったミーガン・カイノさん
は、95年から1年間、JETプログラム(※)に参加し、埼玉県鷲宮市の中学校で英語指導助手を務めた経験を持っている。そのミーガンさんの父親で、パー
スで水産物輸出業を営む海野久仁彦氏も、かつて太地からブルームに渡ったダイバーだった。19世紀に遡る太地町とブルームとの歴史的なつながりは、豪州の
町に日本語読みの一大イベントを生み、3つの世紀をまたぎ
世代を越えて、日豪交流の輪をさらに大きく広げているようだ。
※87年に開始されたJET(Japan Exchange and Teaching)プログラムは、海外青年を
1〜3年日本に招き、語学指導助手や国際交流員として全国各地の学校や自治体に
派遣するもので、外務省、文部科学省、総務省、自治体国際化協会、各地方公共団
体が協力して実施している。2000年度の参加者数は、42カ国6千人以上(豪州からは417人)に及ぶ。 |